歯のそろっている人(有歯顎)の頭蓋の重さは650グラム位で、骨縫合は明瞭ですが、歯が無くなった人(無歯顎)では、その重さは半分以下になり骨縫合は癒着します。下顎に伝わる噛む力は、骨と歯の根っこをつないでいる歯根膜を経て、両頬にある大きな咬筋という筋肉に吸収され、さらに上顎に伝わる力は脳下垂体に集中し、記憶や感情を支配する「海馬」「扁桃体」にも伝わります(図1)。つまり首から上で唯一動く顎関節は、上下の歯が正しい位置関係で噛み合うことにより、顔面周囲の筋肉や大脳辺縁系、頭蓋を育て活性化する役割をになっています。 |
(図1)
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歯の噛み合わせと顔面周囲の筋肉、顎関節は互いに密接に関係しあっています。
何かを詰めたり、かぶせてもらったけれど、噛み合わせが高かったり低い場合があります。暫くすると慣れるだろうと放置していたら、どういうことになるのでしょうか。もしも入れたものが高いものであれば、その邪魔な所を回避する噛み合わせのサイクルに変化し、歯が少し移動し、歯並びが変化するかもしれません。又 その気になる所が引き金となり、歯軋りの原因となります。その現象が長期に及ぶと、その歯を支える周りの組織が限界を感じ、歯ぐきが下がり骨が無くなることもあります。
もしも低いものが入った場合(低位咬合)には、噛むためにぐっと力をいれて噛まなければ歯の接触が得られませんから、同側の顎関節は本来のあるべき位置より少し後方に移動します。顎関節の後方移動は、実に大きな問題をひきおこします。顎関節と頭蓋骨の間には、顎の動きを円滑にする関節円板という綿維性の組織があります。通常顎が動く時には、顎関節と関節円板は同調して動くのですが、顎関節が後方に移動することにより、関節円板との間にずれが生じ 顎の動きがぎこちなくなります。そのために口を開けると音がしたり、顎関節の痛みを伴なったり、口があけづらくなります。又 偏頭痛や首、肩のこり、食事の際に物が飲みこみにくくなったり、気力がなえたり、いらついたり、うつの症状、耳鳴り、めまい、立ちくらみ等、人によっては様々な症状(不安愁訴と一般に言われています)を発症し、これらを総称して「顎関節症」と呼ばれています。つまり顎関節の後方移動により、耳の穴と顎関節の僅かな隙間を走る浅側頭動脈、静脈、神経の圧迫が原因と考えられています(図2)。この様々な症状を発症した時、心療内科や耳鼻科、眼科、整体師を受診する可能性もあります。いわゆる歯科難民です。
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(図2)
顎関節が本来あるべき位置(解剖学的な位置)は、関節円板を介し関節隆起の後壁に対し垂直にあり、その均衡した位置関係が、最大の咬合力(噛む力)をなんなく受け止められるのです。
しかし噛み合わせが低くなると、顎関節は後方に移動し、そのバランスはくずれ様々な症状が発症します。 |
ここで別の視点から噛み合わせについて考えましょう。
自律神経は内臓や血管の機能をコントロールし、交感神経と副交感神経に大別されます。日中の活動的な時には交感神経がやや優位になり、食事や睡眠時には副交感神経がやや優位な状態にあります。しかし副交感神経が低下すると、血管の老化が進み免疫力も低下し、体は病的な状態におちいります。つまり副交感神経は、心身のバランスを整え、生活の質を左右しているのです。さて口の中ではどうなっているのかというと、前歯は交感神経支配、臼歯は副交感神経支配ですから、噛み合わせが悪くなるとそのバランスはくずれ自律神経失調症になるのは明白です。具体的に言うと、臼歯つまり、小臼歯、大臼歯の噛み合わせが変わり、それを治療せずに放置していると、前歯にまで悪い影響が及び、副交感神経が極度に低下し、心身の低下を招きます。又、噛み合わせが大きく変われば、当然のことながら左右の顔面筋肉のバランスはくずれ顔は歪みます。
頬づえや悪い姿勢、打撲や事故による外傷他何らかの因子により左右の顎関節の形態、顎関節が入っている頭蓋骨のくぼみが左右で異なる場合に於いても、顎の動きはいびつになります。
生体は、実に曖昧です。不適切と思われる治療がなされていても、生体はその防御反応により、形を変え自覚症状もなく経過している例も数多くあります。しかし、一旦その許容範囲を超え限界に達した時には、様々な症状が現れます。そこで初診時の噛み合わせが、正しい位置関係にあるのか、機能を阻害している因子があるのかを診査、診断することが何より大切です。つまり、これから起こりうるかも知れない症状を未然に防止する策を常に考え、知らせることが患者さんの幸せにつながります。その診断もせずにただ闇雲に歯を削るのは、近視眼的であり大切なことを見失い、誤ちをくりかえすばかりです。
顎関節や顔面周囲の筋肉を活性化させ、育てる噛み合わせの法則があります。
前歯と臼歯ではその形態、機能は大きく異なり、前歯は食べ物を切断し、臼歯は食べ物をより小さく噛み砕き嚥下に導きます。しかしこの当たり前とも思えるあり方が、決して長く続くものではないというのが現状なのです。
前歯は殆どの場合斜め前方に傾斜し、刃の役目をもち、生体が許容する範囲に於ては斜めの力に対し粘り強く、一方臼歯は臼状で上下的な力に対しては威力を発揮するも、僅かな斜め方向の力に対しては極めて脆弱です。前歯つまり切歯・犬歯は、前や横方向に動く顎の動きの中で臼歯を守る役割があります。つまり顎を前にすべらせると、上の切歯の裏側のなだらかな曲線にそって、下の切歯の尖端がレコード針の様になぞって動くことにより、上下臼歯どうしの衝突がないように離開させているのです(図3)。次に顎を横にずらすと、上の側切歯、犬歯、場合によっては小臼歯が、下の犬歯、小臼歯とすれあいながらより後方の臼歯どうしの衝突を回避してくれます。又、顎の動きは前、横方向に動くばかりではなく、少し後方に動き僅かな自由度があります。
患者さん個々の噛み合わせは、多様にあります。
そのルールを無視して、ここ数十年それがあたかも本流と言わんばかりのさまざまな咬合理論にふりまわされ、患者さん独自の噛み合わせを解析することなく修復が行われるケースが後をたちません。患者さんの主訴はいろいろですが、何の不安もなく噛めるようになりたいというのが本音であることを、私たちは忘れてはならないのです。適切な噛み合わせを探し得た時、その噛む力は歯ぐきを育て、骨を活性化させ、顎関節の不安から解放され、顔面周囲の筋肉のはりをも回復させます。
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(図3)例えば、顎を前に移動すると、上の前歯の裏側のなだらかな曲線に沿いながら下の前歯の
尖端が動くことにより、臼歯の噛み合わせは離れ上下臼歯どうしの衝突は回避されます。
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ここで正常な歯並びのあり方について考えましょう。
上顎の歯並びは立位では床面に対し平行関係にあり(咬合平面とよばれます)、下からつき上げる力に対し、しっかり受けとめるように並んでいます。又 下の歯並びを横から見ると下顎骨の形と同様に臼歯後方にいくにつれてゆるやかに上方にカーブし(図4)、前方から見ると下顎の左右にある臼歯のとんがった頭(咬頭)を線で繋ぐと、振子の軌跡のようにゆるやかにカーブしています(図5)、これは顎関節から遠くにある前歯は、顎関節の円滑な動きをコントロールしながらも強靭な破砕力をもつ臼歯を保護し、かつ臼歯も存分にその力を発揮できる利にかなった有り方なのです。このすばらしい関係が、多くの場合治療という名の下に於て変化し、多くの支障が生じ患者さんを悩ませます。
私たちの体は実によく出来ています。多くの部分が遺伝子の引き継ぎにより成り立っているのですが、同じように見えても日常臨床の中では明らかに個体差を感じます。つまり生体の法則を分析診断し慎重に治療する、それが治すということです。
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(図4)前後的咬合湾曲またはスピーの湾曲と呼ばれています
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(図5)側方的咬合湾曲またはウィルソンカーブと呼ばれています |
今まで述べてきたことを考察すると
歯の形態、機能は、顎の動きに同調していることが自然なあり方であり、それを阻害するものがあれば顔面周囲の筋肉、顎関節に負担をきたすばかりか、脳頭蓋その周囲組織にも大いなる影響を及ぼします。ですから噛みづらさを少しでも感じた時は、「最初はこんなものかな」と思わずにすぐさま調整することが、症状を悪化させない最善の方法です。
しかしひとたび顎関節症になると、今迄に受けた治療内容を全て問診し、そこから得た情報を基に噛み合わせを詳細に分析します。それは時間を逆行する苦難な作業です。前歯の長さ、幅、その裏の曲面、臼歯の高さ及び形態、顎が動く時にガイドとなる切歯、犬歯、あるいは小臼歯のあり方、そして臼歯の離開度を再現することは容易ではないのです。
実際の治療では、症状の改善や後退を何度もくりかえします。つまり噛み合わせを変えるということは、その変化を筋肉、顎関節が受け入れるのに時間がかかるということに他なりません。それはあたかもパズルを並べかえながら目標に近づく作業に似て、患者さんと私たちとの忍耐力・根気との戦いでもあるのです。
そうならない様に、常日頃噛み合わせの調整に時間をかけ、細心の注意を払いながら、より精度の高い医療を追求することが何よりも大切であるということは言うまでもありません。 |
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